2016年7月15日

追想:沖縄米軍基地の金網塀の内と外

フク木(沖縄県国頭郡本部町備瀬 1975年)

以下は朝日新聞社社内報2016年夏号に「写真を語る:光あふれる神々のくに」と題して寄せた一文です。

35年後にジム(右端)から届いた
クリスマスカード(2010年12月)
ジミー・カーターが大統領に選ばれた1967年秋、アメリカの東南部を旅した。ワシントンDCを起点にした私はグレイハウンドバスを乗り継ぎ、ケンタッキー州ルイビル郊外に住むジム・ウィリアムスを訪ねた。父親は一階の客間に寝泊まりするよう勧めてくれたが、ベッドがある地下室にもぐり込んだ。ペンキ職人の父親は寡黙だったが、母親は陽気で饒舌だった。土曜の晩になるとフリルが着いたドレスを着てフォークダンスパーティに出かけた。ジムは失職中でいわば居候だったが、修道僧が瞑想にふける人里離れた修道院など、観光では見落としてしまいそうな珍しい場所を車で案内してくれた。女子大生の友だちを紹介してくれたのが印象に残っている。ジムとの出会いを語るには、その一年以上前に時計の針を戻す必要がある。

75年7月下旬から沖縄県国頭郡本部町で開催される予定の海洋博の特集を、今は「休刊」になってしまった『アサヒグラフ』が組むことになった。メインの写真取材班は会場のパビリオンなどを撮影、いわばガイドブックを作ることだったが、私の役割はその対極にあったと言えそうだ。とにかく自由に好きなところを歩き、思いのまま感ずるまま写真を撮って欲しいとのことだった。那覇から歩き出したのは6月下旬と手元の記録にある。Tシャツに半ズボン、そして軽登山靴にフレームザック。まさにバックパッカーそのもので、取材というより、放浪といういでたちだった。万が一の故障に備えザックに予備のカメラを忍ばせたが、基本的には焦点距離35ミリのレンズを付けたライカM4一台で撮ることにした。鉄道がない沖縄はタクシーに頼りがちになるが、移動はバスと徒歩だった。歩くことが仕事だった。

本島北端の国頭郡国頭村奥の民宿に辿り着くと米兵の先客がいた。休暇を取ってスキューバダイビングに来たという。それがジムだった。巨体を揺すりながらポツリと話してくれたことによると、精神的ダメージを受けた兵士の看護が仕事だという。サイゴンが陥落したのは僅か2カ月余り前の4月30日だった。「戦争中はベトナムから傷病兵がたくさん沖縄に送還されてきたんでしょうね」という私の愚問に対し、ジムは無言のまま肩をすくめただけで無言のままだった。著書「内なる外国『菊と刀』再考」(時事通信社・81年)によると、60年に海兵隊員として沖縄に駐留した政治学者ダグラス・ラミスは、基地で働く日本女性がバレーボール大会で屈強な海兵隊員を負かしてしまうのを見て、金網塀の外に目を向けるようになったという。逆に金網の外にいる日本人の多くが、その内側を知らないと言えそうだ。ジムは多くを語ってくれなかったが、そのこと自体が戦争の影を暗示していた。彼との関係こそ私と金網塀の内側を結ぶ細い線であったことは間違いない。

数年後、一通の絵はがきが届いた。ジムの横に花嫁姿のあの彼女が立っている。

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