2016年6月19日

ソロー『森の生活:ウォールデン』に繋がるかき氷の旗

マサチューセッツ州スパイ池の採氷風景(1850年代初頭)

『森の生活』(岩波文庫)
ヘンリー・D・ソローの『森の生活:ウォールデン』は、安政元年(1854)に刊行された。アメリカのペリーが浦賀に再び来航、横浜村で日米和親条約が調印され、日本が開国した年である。マサチューセッツ州コンコード近くのウォールデン湖畔に自ら建てた小屋に、2年余り暮らした経験を元に書かれたものである。この中に次のような記述がある。「百人のアイルランド人たちが、ヤンキーの監督と一緒に、毎日ケンブリッジから氷を切り出しにやって来たのだった」云々。つまりソローは凍結した湖面の氷の切り出し作業を目撃した。天然氷を冬場に採取し保冷しておき、夏場に南方の都市部で販売するという事業だったが、これを仕切る人物の名をソローは知る。フレデリック・テューダー(1783-1864)だった。彼はコンコードのウォールデン池の他に、ケンブリッジのフレッシュ池、アーリントンのスパイ池、エアのサンディ池、ウーバンのホーン池、ウェークフィールドのクアンナポウィット湖、アンドーバーのハゲッツ池、リンフィールドのサンタアグ湖、ストーンハムのドレフル池、ウェナムのウェナム湖など、マサチューセッツ州の湖や池で氷を採取した。テューダーの名からターシャ・テューダー(1915-2008)を連想する人は少なからずいると思う。日本でも人気が高い、絵本作家、園芸家である。なんとフレデリックはターシャの曽祖父にあたる人物であり、彼こそ明治初期に日本に天然氷を輸出したボストンの事業家だったのである。ターシャが俗界から逃れたのは、当然のことながら『森の生活:ウォールデン』を読んでいただろうし、ソローの強い影響によるものと私は想像している。

「函館五稜郭龍紋氷採取の景」(函館市中央図書館蔵)
函館市史デジタル版によると「当初氷は横浜に居留する外国人の飲料品や食肉保存用として利用され、また後には来日した外国人医師が治療用に利用する場合もあった」という。さらに「ボストンから横浜までの長時間の航海輸送のために目減りが激しく氷の価格は非常に高価であった。それを横浜の居留地で氷販売に当たっていた外国居留商人が市場を独占して多額の利益を得ていたという。こうした状況下にあって、国内での採氷業に注目したのが中川嘉兵衛であった」というのだ。ボストン氷が多大な利益を得てることを知り、日本各地で採氷して横浜へ運送したが、いずれも品質の面ボストンとは比べ物にならず失敗に帰した。紆余曲折を経て亀田川を水源とする好水質を持つ函館五稜郭に出会い、ボストン氷を上回る品質の函館氷を1883年(明治16)に世に出すことができたという。函館氷は「函館五稜郭龍紋氷」のことで、1935年(昭和10)に北島エハガキ店が発行した採氷風景の絵ハガキが残っている。


大阪の氷室会社の函館五稜郭氷ちらし(早稲田大学図書館蔵

波千鳥の氷旗(京都市東山区祇園白川)
これは関西各地に支社を持つ大阪の氷室会社「竹水亭」の宣伝ちらしである。明治時代、冬季以外に氷を得るには、天然氷を氷室に保存しておくしかなく、夏の氷は大変貴重なものだった。だからこのような「氷室ビジネス」が全国で成立したのだろう。今日は雨模様で気温がやや下がっているが、昨日は33℃を超える真夏日だった。猛暑にはかき氷が欲しくなる。先日鹿苑寺(金閣寺)門前の甘味処で見た氷旗は、何か足りないと思ったが、波だけで千鳥がないことに気付いた。右の写真のように千鳥があるのが「正式の氷旗」であるが、気のせいか千鳥を省略した旗が増えたような気がする。波に千鳥の組み合わせは伝統的な日本のデザインなのだが、千鳥の省略は氷旗の由来を無視したものだと思う。氷の産地表示、あるいはに使われた「官許氷函館」という旗が原型らしいのだが、画像を見つけることができなかった。その代わりに函館市の市史デジタル版には函館氷の広告が載っているが、現在の氷旗の書体とデザインとは全く別のものである。いずれにしても現在の氷旗は全国どこでも共通、かき氷を商ってることがすぐに分かる、優れたデザインであることは紛れもない。

YouTube  Frederic Tudor and the Ice Industry

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