2014年8月30日

タチハラ写真機製作所の廃業

Tachihara Fielstand 45II Handy View 4521

大判カメラのススメという一文を書こうと思い、国産木製暗箱の値段を調べたところ、タチハラ写真機製作所の製品が販売中止になっていることが分かった。それにホームページも消えている。ちょっと慌てて立原さんに電話したところ、1年半前に廃業したという。自身が高齢化、そして職人さんたちも辞めてしまったという。国産の木製暗箱は海外で人気があるものの、一度買うと長持ちするので買い替えない。私もその一人だが、故に流通が滞ってしまったのだろうか。上野の長岡製作所からは今年も年賀状を頂いているので大丈夫だと思うけど、一抹の不安を感じてしまった。タチハラの製品は「Fielstand45II」を持っているが、赤い蛇腹が美しく、気に入っている。立原さんによると、蛇腹やピントグラスなどの部品は若干残っているという。割れたら修復できない後者を取り寄せようと思っている。いささか寂しいこのニュースをフェイスブックに投稿したところ、やはり知らなかった人が多いようだ。アナログ写真がデジタルに対抗できるのは大判カメラによる作品作りだと思う。フィルムばかりではなく、海外ではガラス板による湿板写真など、オルタナティブな写真技法が盛んである。そんな時世ゆえ、タチハラ写真機製作所の廃業はひじょうに残念である。

2014年8月29日

熱鬧的夏季怎麼一下就來到尾聲啦

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賑やかな夏もいよいよ終わりだ、といった意味だろうか。これはFacebookのページ「Visit Kyoto Tw」に掲載されている京都観光カレンダーである。中国語はさっぱりだが、地元京都の伝統行事だし、繁体字なので私でもおおむね理解できる。一般に催事案内などは一覧表にするのが普通だが、このようにカレンダーにまとめると非常に分かりやすいし、パソコンの壁紙にもなる。日本語版が欲しい。盆地京都の蒸し暑さは尋常ではないが、それでも私は夏が好きだ。その夏が去るのは寂しい。

2014年8月26日

安価なポリ容器でタコス式4x5フィルム現像


昨年の7月末に「大判4x5フィルムをタコス式で現像する」という一文を寄せた。タコス式とはシートフィルムを輪ゴムで丸めて、ロールフィルムを現像する方法で、フィルムの側面がメキシコ料理のタコスに似るからこの名がついている。前回紹介したタンクは、スペイン製のAP5041で、日本のLPLが扱ってるタンクだった。35ミリ用リールが2本付いてるせいか5000円弱と高価である。難点は4x5フィルムを4枚しか処理できないことで、もう少し大きなものを探したが、現像用タンクでは適当なものが見つからなかった。そこで写真用品にこだわらすに探したところ、DIC(旧:大日本インキ化学工業)製の小型密閉容器DSP-1Fが適切な大きさと分かったので取り寄せてみた。直径130ミリ、高さ125ミリ、容量1000CC、ご覧のように4x5シートフィルムが6枚入る。密閉容器なので逆さにしても処理液が漏れないので、転倒撹拌ができる。私は事業者向けネットストア「モノタロウ」から取り寄せたが、1個276円だった。調べたところアマゾンでも入手可能で、それでも364円と安い。図のように回転現像すれば処理液は半分の500CCで済む。

Amazon  DIC(旧:大日本インキ化学工業) DSPシリーズFタイプ1F蓋付 黒

2014年8月23日

コスティカ・アクシンテのガラス乾板写真の魅力

Fetiță by Costică Acsinte (Constantin Axinte 1897–1984)

Innocence by Jane Long(クリックで拡大)
フリッカーに風変わりなカラー写真が掲載されている。ジェーン・ロングさんの「Dancing with Costică」というシリーズの1枚で、デジタル技術を駆使した合成写真だ。ロングさんの画像処理の品位の高さもさることながら、その素材がルーマニアのコスティカ・アクシンテのガラス乾板写真であることに特徴がある。上の写真がオリジナルである。実はフリッカーにはCommonsという歴史的に貴重な古写真をアーカイブするプロジェクトがあり、私はアクシンテのガラス乾板写真群に注目、見惚れていた。ネット検索したところ、日本語解説ページはヒットせず、ウィキペディアも英語、ルーマニア語、イタリア語版しかない。というわけで、日本ではまだ知られていないと言ってよいだろう。公式サイト「Costică Acsinte Archive」によると、ブカレストの操縦士学校を卒業したアクシンテは、第一次世界大戦が勃発するとボランティアの戦争写真家となる。復員後、写真スタジオを開設、ガラス乾板による撮影を1950年まで続け、その後はフィルムに切り替えたという。注目に値するのはガラス乾板で、なんと5000枚残っているという。その数に驚かされるが、技術的に優れていて、魅力ある作品群である。デジタル化のプロジェクトが昨年立ちあがったせいか、徐々に世界中の評価を受けるようになったようだ。ロングさんの合成写真がその象徴かもしれない。

2014年8月16日

五山送り火を支える無名寺院の信徒たち

護摩木  金閣寺(京都市北区金閣寺町)

きょうは8月16日、精霊を冥府に送る「五山送り火」が行われる。この時期になると、確か2007年に読んだ水上勉氏の随筆を思い出す。送り火を支えてるのは金閣や銀閣寺のような観光寺院ではなく、無名寺院であるというのがその趣旨だった。2011年8月15日に当ブログで紹介したが、再掲したい。如意ヶ嶽の大文字を守っている浄土院でいただいたパンフレットに復刻されていたもので、単に雑誌「PHP」11月号とあるだけだが、古都税紛争一時和解、御巣鷹山日航機墜落事件に触れているので、1985年と推測できる。

五山の送り火  水上 勉(作家)

ことしは久しぶりに京五山の送り火を拝んだ。周知のように五山とは、如意ヶ嶽の大文字、松ヶ崎東、西山の妙法、船山の舟、大北山の左大文字、鳥居本の曼荼羅山の鳥居である。十三日の盆に、祖先の精霊を迎えた京の家では、仏壇に供物をならべて念仏申しあげ、家内安全息災を祈願するとともに、精霊を弔うのだが、十六日にはその精霊が、ふたたび彼岸へ帰ってゆくのを送らねばならない。火はつまり、その仏徒たちの昔から行ってきた精霊送りだ。調べてみると、これらの火は、五山の保存会のメンバーによって焼かれ、一般の人は仲間に入らない。昔から寺の信徒にその役があり、しかも、若衆と呼ばれた青年たちによって、焼かれるところもある。不思議なことに、それらの寺は有名寺院ではない。有名寺院といえば、京都ではみな観光寺院になってしまうが、火を焼く寺は、殆ど観光とは無縁といっていいだろう。

まず銀閣寺前にある浄土寺が如意ヶ嶽の大文字を焼き、松ヶ崎は湧泉寺、船山は西方寺、大北山は法恩寺、鳥居本には寺はない。古くからの保存会員の持ち山で、町衆が焼くそうだ。焼かれる護摩木は寺でつくられ、寺に詣でた善男善女が、新仏の法名や、俗名を書いて護摩料を払うのである。新仏が出なかった家は、先祖代々の霊だとか、一家の安全息災を祈ることばを書く場合もある。いずれにしても、これらの木をあつめて、背負って山へのぼり、汗だくになって焼く人々はむな、無名の信者たちである。この行事が何百年とつづいて、今日も燃えつづけた。なかった年は、敗戦の年とその翌々年までの三年だけで、昭和二十三年から休んだことがない。

つまり、仏を送る信心に休みがないということであって、本心は、敗戦の年まわりこそ、大勢の死者が広島や長崎にあふれ、爆災都市にも、たくさん焼死体がころがっていたのだから、京の町衆は送り火だけは焼きたかっただろう。ところが占領下であったために、遠慮しなければならなかった、とつたえられる。それにしても、この行事が、古くからの信者たちによって、手弁当で行われてきたことに私は心を打たれる。今は京の観光の目玉ともなり、どのホテルも満員の外来を迎えてほくほくだが、じつはその送り火そのものは、観光と無関係に、信心の証として、保存会の家々がうけついできている。

そこで、思うのだが、私たちは、大文字といえば銀閣寺を頭にうかべ、左大文字といえば金閣寺を頭にうかべ、有名な相国寺派別格地の両寺が焼くように思いがちだ。そうではない。護摩木は観光客に売りはするけれど、山へのぼって焼くのは、ほかの寺の信徒がやっていたのである。しつこいようだが、このことにこだわるのは、凡庸な俗界にあって、信心の火を観光寺院に見ることが出来なくなった、ということを、五山の火は教えたからである。伝によれば、如意ヶ嶽の大文字は、銀閣慈照寺を創建した足利義政がはじめたともいう。とすれば銀閣寺はやはり、火の元だったわけだが、いまは門前の浄土寺が、汗だくになって護摩木を背負いはこび、当夜は、弘法大師像を安置するカナオの堂前で、誦経をし、住職の合図で火がつけられる。

ことしの送り火はいろいろのことを考えさせられた。銀閣寺も金閣寺も古都税問題で、(つまりゼニのことで)門を閉めて人を入れなかったりした。ところが、どういう相談ができたか、急に市当局と握手して、門がひらかれた。門をひらくことは賛成だが、なぜ門をしめたのか、庶民にはよくわからなかった。法灯を守るというのが理由のようだった。だが十六日の法の火は、観光とない信心の徒をあつめる無名寺院が汗だくで焼いていたのである。送り火は死者を送るのだから、生者のよろこびだ。生者といっても、いつ朝霧の如き命を落とさねばならぬかわかったものではない。安全と信じた大型飛行機が、とつぜん五百名以上の乗客もろとも、山にぶっつかって燃えあがるこの頃である。

われわれはコンピューター文明の世を生き、平和だといっている。一億総中流だともいっている。寿命ものび、老後に年金も入り、ゲートボールも楽しめ、しあわせな国に生きている思いが国民の大半を占めている、ともいう。本当にそのように平穏だろうか。五山の送り火は、何百年と同じ火を燃やしてながら、新しい何かを私にささやいた。何をささやかれたかを語るには枚数が足りない。火を拝んで、私は今日つかのまを生きておれたことを感謝したとだけいっておく。

※絵も筆者 文中の浄土寺は浄土院(京都市北区銀閣寺町)法恩寺は法音寺(京都市北区衣笠街道町)

2014年8月15日

マッカーサー元帥の椅子に座った

マッカーサー記念室  第一生命保険株式会社本店(東京都千代田区有楽町)

連合国最高司令官総司令部(GHQ)は昭和20年(1945)9月15日、東京・日比谷の第一生命館を接収した。第一生命社長室として使われていた6階の部屋に、最高司令官 (SCAP) に就任したダグラス・マッカーサー元帥の机と椅子が置かれた。昭和27年(1952)に返還され、そのまま「マッカーサー記念室」として保存されて今日に至っている。雑誌の取材で1986年8月8日、この部屋を撮影した。元帥の椅子に座っているのは私である。

2014年8月14日

夏河を越すうれしさよ手に草履

水遊び  鴨川(京都市上京区梶井町)

下鴨神社糺の森で開催中の「納涼古本まつり」を覗いたあと、賀茂川沿いに下り、高野川との合流地点、出町柳の鴨川に出た。台風11号の余波で水嵩がいつもより若干増していたが、子どもたちが飛び石の周りで歓声を上げていた。思わず与謝蕪村の表題のような句を思い出した。草履を手に川を渡ることはないが、夏の川は子どもにとって昔も今も、嬉しい存在なのだろう。

2014年8月13日

原発ゼロを目指すことは当たり前


現状、原発稼働なくとも電気は十分賄えていますね。今まで、まんまと奴らに騙されていましたね。このお狭い地震大国に50数基もの原発を建てたのはなんなんでしょうね。その事で一体誰が得をし誰が損をしているか考えればおのずと原発ゼロを目指すことは当たり前のことですね。お互い駄目な事はNO!と言える日本人になりましょう。このままじゃ小ずるい奴らの思う壷です。(不徳永卍

2014年8月12日

証明写真が語りかけるイラン女性の一生


画像は写真サイト「レンズ・カルチャー」にアリ・モバッサー氏が、文章と共に寄稿したものである。叔母のアフサネ・モバッサーさんの証明写真をスライドショウで見ることができる。最初のコマは1964年、7歳、小学校1年のときの写真である。アリ氏の記事にある通り、アフネスさんは裕福な家庭に生まれ育ったそうだが、小さな写真からそのことをを窺い知ることができる。彼女の運命を変えたのは、やはり1979年に勃発したイラク革命だったようだ。最後は2012年撮影のフォトカードで、55歳。翌年8月11日、彼女は脳溢血で倒れ、3日後に他界したという。56歳だった。13コマの証明写真が、一人の女性の一生を語りかけている。

2014年8月11日

アフガニスタンからの報告 中村哲さん講演会

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講 演: 軍事力で平和は築けない ペシャワール会の30年
日 時: 2014年8月31日(日)開場13:30 開演14:00
会 場: 京都大学・法経第4教室(時計台北側)
会 費: 資料代 500円 申込不要
主 催: ピースウォーク京都 080-6159-6073
詳 細: http://pwkyoto.com/

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2014年8月10日

リニューアルしたMyYahoo!を導入してみた

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このブログに「グーグルのiGoogleからNetvibesへの引っ越し準備」という一文を寄せたのは昨年の5月下旬だった。スタートページとして便利だったそのiGoogleが廃止されたのは同年7月1日で、似た機能のNetvibesを導入したものの、しばらくして何故かデータが壊れてしまった。ヤフーのMyYahoo!も検討したが、デザインが好きになれず食指が動かなかった。というわけで閲覧スタートツールなしに1年が過ぎた。ブックマークからページにアクセスするという方法に戻ったわけだが、例えばブログなどは、更新されているかどうかは開いてみないと分からないので、ネット巡回の頻度が次第に落ちてしまった。ニュース情報にしても、個々のサイトに直接アクセスせず、結局グーグルやヤフーのニュースページに頼ることになり、守備範囲が狭くなってしまった。ところが今年6月にヤフーがMyYahoo!をリニューアルしたことを知った。デザインも洗練され、iGoogleに近い使い勝手なので、一念発起、導入に踏み切った。使ってみての感想だが、強いて欠点を挙げるなら、ページ切り替えがプルダウンメニュー方式であることだ。やはりタブ方式のほうが使いやすい。それからスマートフォンと連動させてあるグーグルのカレンダーを埋め込めないのが残念である。

2014年8月7日

かき氷とソロー「ウォールデン;森の生活」を繋ぐ糸

氷旗  五条坂(京都市東山区五条通大和大路東入る)

今日から京都市東山区五条坂の「陶器まつり」が始まった。35℃を超える炎天下、たまらず食堂に飛び込んでかき氷を食べた。ニッポンの夏はやはりかき氷なのだ。子どものころ、縁日で食べたかき氷を忘れることができない。赤や黄色いシロップ、今思えば合成着色料を使ったいささか怪しげなものだったかもしれないが、イチゴやレモンの天然シロップと信じて食べたものだ。かき氷を売ってる店では、青い波千鳥をバックに赤い文字で氷と書かれた小型の幟を掲げていることが多い。全国津々浦々で見られる光景だが「氷旗」と呼ぶそうだ。そのデザインの起源を探ってみたところに突き当たった。氷の産地表示あるいはに使われた「官許氷函館」という旗が原型らしいのだが、画像を見つけることができなかった。その代わりに函館市の市史デジタル版には函館氷の広告が載っているが、現在の氷旗は書体とデザインが少し違う。函館氷はブランド名で「函館五稜郭龍紋氷」のことで、昭和10年(1935)北島エハガキ店が発行した採氷風景の絵ハガキが残っている。

函館五稜郭龍紋氷採取の景(昭和10年4月2日発行)
五稜郭は江戸時代末期に函館に作られ、その内部が明治4年(1871)以降建壊された城郭のことである。ここの天然氷を切り出して「函館氷」として京浜市場に送りはじめたのが愛知出身の中川嘉兵衛だった。開港後、アメリカのボストンから天然氷が輸入されるようになった。上記函館市史によると「当初氷は横浜に居留する外国人の飲料品や食肉保存用として利用され、また後には来日した外国人医師が治療用に利用する場合もあった」という。さらに「ボストンから横浜までの長時間の航海輸送のために目減りが激しく氷の価格は非常に高価であった。それを横浜の居留地で氷販売に当たっていた外国居留商人が市場を独占して多額の利益を得ていたという。こうした状況下にあって、国内での採氷業に注目したのが中川嘉兵衛であった」というのだ。ボストン氷が多大な利益を得てることを知り、日本各地で採氷して横浜へ運送したが、いずれも品質の面ボストンとは比べ物にならず失敗に帰した。紆余曲折を経て亀田川を水源とする好水質を持つ函館五稜郭に出会い、ボストン氷を上回る品質の氷を世に出すことができたという。出荷された商品には、龍が舞う図柄がデザインされていたといわれ、今に伝わる氷字の下に水流模様の原型になったとみられている。

ウォールデン;森の生活
舞台をそのボストンに移すことにしよう。ヘンリー・D・ソローの『ウォールデン;森の生活』は、安政元年(1854)に刊行された。アメリカのペリーが浦賀に再び来航、横浜村で日米和親条約が調印され、日本が開国した年である。マサチューセッツ州コンコード近くのウォールデン湖畔に自ら建てた小屋に、2年余り暮らした経験を元に書かれたものである。この中に次のような記述がある。「ヤンキーの監督者たちに連れられた百人のアイルランド人たちが、ケンブリッジから毎日氷を切り出しにやって来たのだった」云々。つまりソローは凍結した湖面の氷の切り出し作業を目撃した。天然氷を冬場に採取し保冷しておき、夏場に南方の都市部で販売するという事業だったが、これを仕切る豪農の名をソローは知る。フレデリック・テューダー(1783-1864)だった。

テューダーの名からターシャ・テューダーを連想する人は少なからずいると思う。日本でも人気が高い、絵本作家、園芸家である。なんとフレデリックはターシャの曽祖父にあたる人物であり、彼こそ明治初期に日本に天然氷を輸出したボストンの事業家だったのである。ターシャが俗界から逃れたのは、ソローの強い影響によるものと想像できる。中川嘉兵衛が函館で切り出した氷は、当然のことながら飲用にも使われたが、その典型がかき氷だった。文献歴史学は面白い。そして昨今は図書館に行かずとも、ウェブ上で様々歴史資料に出会える。かき氷のルーツである函館氷が、ソローやターシャ・テューダーと一本の糸に繋がってることは興味深い。

2014年8月6日

セシル・ビートンの英王室写真の華麗

エリザベス王女  バッキンガム宮殿 1945年 ©Cecil Beaton

英国の写真家セシル・ビートン(1904-1980)といえば、ファッション雑誌『ヴォーグ』や『ヴァニティ・フェア』で活躍、グレタ・ガルボやマリア・カラス、オードリー・ヘップバーン、マリリン・モンローといったハリウッド女優のポートレートで知られる。また衣装デザイナーとしても才能を発揮、1964年の『マイ・フェア・レディ』ではアカデミー賞衣裳デザイン賞を受賞している。しかしなんといってもセシル・ビートンといえば、やはり英王室における宮廷写真家としての地位を確立したことである。ポール・ヒル、トーマス・クーパーのインタビュー集『写真術』(晶文社1988年)によると、バッキンガム宮殿に招かれ、滞在中のギリシャのオルガ王女に写真を撮るように頼まれたのが最初だったようだ。もしかしたら英王室は彼の存在を知らなかったかもしれない。そして三日後にエリザベス王女(1926-)とその母エリザベス・ボーズ=ライアン王妃(1900-2002)を撮ることを依頼される。これを皮切りに、英王室全員を撮るようになったのである。写真は1945年に撮影された王女時代のエリザベスII世だが、美しい。華麗の一言に尽きる。

2014年8月5日

ネオパン100アクロスだけになった富士の黒白フィルム

Neopan 100 Acros  8x10, 4x5, 120 and 135-36

写真はフィルムのフォーマットを自分のウェブサイトで説明するため撮ったものである。これをフェイスブックの大判写真グループに投稿したところ、意外な反響があった。富士フイルムが販売しているのは、このネオパン100アクロスだけ、という説明に対する反応だった。日本の黒白フィルム愛好家なら、今年の2月に感度400のプレストの販売を打ち切ったことを知ってると思うが、海外では意外に知られてないらしい。このアクロスは有名だが、感度400のフィルムでは、コダックのトライXやT-Max400、あるいはイルフォードのHP5などのほうが知名度が高いからかもしれない。販売中止の理由を公表しないのが常だが、ネオパン400プレストは優れたフィルムだけど、やはり売れていなかったのだろうか。高感度フィルムはストリート写真向きだが、そのユーザーがデジタルカメラに移行したためかもしれない。その点、8x10までの大判を含むアクロスは、それなりの需要があると推測できる。中判以上はやはりフィルムの独壇場であり、海外の愛好者が多い。これといったアナウンスがないが、このフィルムだけは製造が続くだろうしし、そうあって欲しいと思っている。

2014年8月4日

サーファーが時間旅行するティンタイプ写真


映画「ビッグ・ウェンズデイ」を彷彿とさせるロングボード。この写真がパソコンの画面をよぎった一瞬、古写真かと思った。説明を読んでみると紛れもなく21世紀の写真である。まるでサーファーが写真の中で時間旅行しているようだ。古い写真に見えるのは「ティンタイプ」と呼ばれる古典技法で撮られたもので、アメリカでは主に1860年代から1870年代にかけて流行した。写真撮影用のフィルムは1890年ごろに登場するが、その前は金属やガラスの板に感光材を塗布して撮影した。ティンタイプは黒く塗った薄い鉄板に撮影する方法で、ネガポジ法ではなく、いきなり画像が反転して見える。欠点は左右逆像で、しかもポラロイドのように作成されるのは一点のみである。作者のジョニ・スターンバックさんがこの手法を使い始めたのは、2006年だそうである。動画を見るとカメラはどうやら大判8x10インチのデアドルフらしい。コロジオン湿板なので、撮影直前に移動暗室の中で感光材を塗布、乳剤が乾かないうちに撮り、暗室で現像する必要がある。大きなカメラに手間がかかる処理、それを厭わない背景は何だろうか。実は日本では余り注目されてないようだが、カロタイプ、サイアノタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプ、プラチナプリント、ブロムオイルなどの古典写真技法を使った「オルタナティヴ写真」が世界的に流行しているのである。スマートフォンなどで、余りにもお手軽、簡単に撮れてしまうデジタル写真へのアンチテーゼが、通奏低音として流れてるようだ。

YouTube  Joni Sternbach - Photographer

2014年8月2日

第27回下鴨納涼古本まつり


日 時: 2014年8月11日(月)~16日(土)10:00~17:30(最終日 ~16:00)
会 場: 下鴨神社糺の森(京都府京都市左京区下鴨泉川町)
主 催: 京都古書研究会  http://koshoken.seesaa.net/

2014年8月1日

夏草や君わけゆけば風薫る

夏草  平野神社(京都市北区平野宮本町)

炎天下の街路から逃げるようにして平野神社の境内に飛び込んだ。春に花見の床几が並ぶ西大路側の雑草は刈り取られていた。鉄柵に囲われた桜苑には、たわわに実ったムラサキシキブの青い実が目を和ませてくれる。秋になればその名の通り紫色に変ずるだろう。今はすべたが緑色に包まれているが、やがて自然は紅色から茶色に変じ、そして遂には灰色に変幻するのである。標題は正岡子規の句だが、与謝蕪村の「夏河を越すうれしさよ手に草履」という句もこの季節によく似合う。