2012年7月31日

鳥辺山から清水寺への無常の道を歩く

西本願寺大谷墓地(京都市東山区五条坂東鳥辺山)Fujifilm Finepix X100

京都市バス「五条坂」を降り、西本願寺大谷本廟沿いの小道を登る。廟の築地塀が切れた道沿いに「肉弾三勇士」の墓があった。第一次上海事変のとき、蔡廷鍇率いる十九路軍陣地に爆弾を抱えて突入して戦死した3人の兵士だが「爆弾三勇士」とも呼ばれている。昭和になって最初の「軍神」となった、いわば日本の軍国主義の象徴ともいえる存在である。靖国神社でレリーフ像を見たことがあるが、こんなところに墓があるとは知らなかった。さらに急こう配の道を登ると視界が大きく開けた。この道は稜線なんだろうか、何しろ夥しい数の墓石の間を通っているので、山という概念を捉えにくい。しかし、おそらくこのあたりが山頂なのだろう。途中、いずれも鳥辺山の名を冠した通妙寺、そして妙見堂に立ち寄ってみた。帝釈天を祀った祠があったり、絵馬堂があったりする、神仏習合の寺院である。現在の清水山から福寺に至る山麓一帯をかつては鳥辺野と呼び、葬送の地、無常の地であった。

小野篁が蓮台野、鳥辺野、華頂、西院、化野の五箇所に葬場を制定したが、鳥辺野は現在に引き継がれ広大な墓地となっている。墓地を抜け、石段を登りきると、いきなり清水寺の境内に出た。静粛な死の世界から喧噪の現世に呼び戻された気分である。灼熱の太陽にふらつきながら仁王門をくぐり、随求堂の前に出る。石の道標があり、右は舞台のある本堂、左は成就院と矢印が指し示している。観光客の流れは当然のように右に折れて行くが、私は左に逸れる。すると右手の斜面に突然石像の群れが現れた。地蔵菩薩、観音菩薩、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来などとさまざまである。かつて京都の各町内にお祀りされていた石仏。明治の廃仏毀釈の際に、捨てるに忍びないと、地蔵信仰の篤い京都市民から寺に運び込まれたものだという。再び静粛が戻った。斜面上の木々の間から細く美しい光線が漏れていた。

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