2012年6月1日

一休宗純『狂雲集』を読む

紙本淡彩一休和尚像   伝:墨斎筆  東京国立博物館蔵(部分)

南海電鉄「住吉大社」駅を降りて、路面電車の軌道を渡ると大きな太鼓橋が見えた。反橋(そりばし)と呼ぶそうだ。昨年一月に足首を骨折した後遺症が残ってるので、一瞬ためらったが登ることにした。川端康成が「上るよりもおりる方がこはいものです」と書いたことでも知られているが、てっぺんからは登山用のステッキを頼りにおそるおそる降りた。四角柱の鳥居をくぐると、第一本宮から第四本宮にいたる「住吉造」と呼ばれる四棟の本殿が視界に入った。一休宗純は次のような漢詩を詠んでいる。富士正晴『一休』(日本詩人選27 筑摩書房)掲載の白文および読み下し文を引用してみよう。(※)

一休 (筑摩書房) 
優遊且喜薬師堂    優遊して且つ喜ぶ薬師堂
毒気便々是我腸    毒気便々是れ我が腸
慙愧不管雪雲鬂    慙愧管せず雪雲の鬂
吟尽厳寒秋点長    吟じ尽す厳寒秋点長し

柳田聖山はこれを「ぶらりとやってきて、何とまあ嬉しいことか、薬師さまの御堂ではないか、毒気で肚いっぱいの、救われぬボクであった。ありがたや、雪か霜のような、髪の白さを気にかけず、悲しい歌にききほれて、長い厳しい冬の一夜が(あっという間に)過ぎたのである」(柳田聖山訳『狂雲集』中公クラシックス)と訳している。文明二(1470)年、一休が盲目の旅芸人、森女が歌う艶歌に聞き惚れたときのことを詠んだものである。さて薬師堂は何処にあるのだろうか。水上勉『一休を歩く』(集英社文庫)によると、住吉大社の第一本宮だという。同書には元々は神仏混合の社で、第一本宮に薬師如来を祀ったいう記述がある。社務所に尋ねたところ、第一本宮に薬師如来はないが、かつて広大な敷地を有した神宮寺があったことは確かで、本尊は薬師如来だったという。ただ『狂雲集』に登場する薬師堂が現在の第一本宮とは言い切れないという。水上氏はここで舞楽舞を観て、森女は巫女ではなかったかと逞しい想像をしている。しかし盲目の女性が巫女を務められるが、ちょっと疑問である。一休が艶歌を聴いたと明記しているし、たぶん瞽女の身分ではなかったかと私は想像している。翌年文明三(1471)年、一休は住吉で森女と再会、以後同棲することになった。78歳と高僧と30歳前後の女性の恋である。
狂雲集(中公クラシックス)

楚台応望更応攀    楚台応に望むべし応に攀ずべし
半夜玉床愁夢顔    半夜の玉床愁夢の顔
花綻一茎梅樹下    花は綻ぶ一茎梅樹下
凌波仙子遶腰間    凌波の仙子腰間を繞る

これは「美人陰有水仙花香」(美人の陰<ほと>に水仙の花の香有り)という題がついた漢詩だが、要するに性愛を赤裸々に詠んだものである。柳田聖山はこれを「楚王が遊んだ楼台を拝んで、今やそこに登ろうとするのは、人の音せぬ夜の刻、夫婦のベッドの悲しい夢であった。たった一つだけ、梅の枝の夢がふくらんだかと思うと、波をさらえる仙女とよばれる、水仙の香が腰のあたりに溢れる」と訳している。文明六(1474)年に一休は第47世大徳寺住持となり、戦火に焼亡した大徳寺の復興を手がける。そして現京田辺市の酬恩庵(一休寺)に移り、文明十三(1481)年に同庵で入寂するまで、二人は仲良く一緒に暮らしたのである。(※)柳田聖山訳『狂雲集』には白文(原詩)の記載がなく。読み下し文に句読点がついている。漢字は象形文字であり、それ自体が美しので、富士正晴『一休』掲載の白文および読み下し文を引用、現代語訳のみ柳田聖山訳を引用した。なお『狂雲集』自体の理解のためには後者が分かりやすいので、併せて写真と共に紹介した。

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