2018年5月23日

太秦広隆寺の弥勒菩薩像と再会

国宝木造弥勒菩薩半跏思惟像(朝日新聞社『上代の彫刻』1942年)

広隆寺講堂(京都市右京区太秦蜂岡町)
薫風に誘われ、弥勒菩薩像に再会したくなり、広隆寺に出かけた。仁王門をくぐると重文の講堂が視界に入る。参拝の栞の境内図には「赤堂」と括弧書きしてあるが、なぜそう呼ぶのか不明である。地蔵菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像を安置しているはずで、格子戸から覗いてみたが、暗くてよく分からない。さらに参道を進むと上宮王院太子殿に至る。いわば本堂で聖徳太子立像が安置されているそうだが、秘仏で、秋の開扉を待たないと拝観できない。太子殿を右に奥に進むと、念願の弥勒菩薩像が座してる新霊宝殿に辿り着いた。照明を落とした中は暗く、目が慣れるまでしばらく時間がかかった。創建当時の仏像や天平、弘仁、貞観、藤原、鎌倉の各時代に造立された仏像が壁に沿って一列に並んでいる。弥勒菩薩像は北側真ん中にある。過去に二、三度ほど拝観しているが、何度見ても美しいと思う。やや距離があり、細部を観察するための双眼鏡を忘れたことをちょっぴり後悔する。賽銭箱があるものの、仏教寺院内陣特有の天蓋などの装飾がここにはない。外観は和風だが、鉄筋コンクリートの耐火建築で、いわば博物館である。寺は二度の火災に見舞われたにも関わらず、多数の仏像が難を逃れた。そういった歴史的背景があるのだろうけど、信仰の対象というより、仏教美術品という側面が強調されるきらいは免れないだろう。仏教美術というとアーネスト・フェノロサを思い浮かべる。寺僧は猛反対したが、法隆寺夢殿の秘仏救世観音の厨子を、200年の禁を破って開けさせたのである。これを機会に、仏像や仏画が信仰と対象であると共に、芸術作品という概念を日本人に植え付けたといえる。フェノロサについては「貴重な日本美術を海外へ流出させた」と批判する意見があるが、彼の調査を元に1897年(明治30)、文化財を国宝に指定して保護する「古社寺保存法」が制定されたのである。明治維新後に発生した、廃仏毀釈という凄まじい嵐が吹き荒れた。多くの仏教寺院の伽藍や仏像が破壊されたが、それに歯止めをかけたのは「国宝」という新しい概念だったのではないだろうか。この弥勒菩薩像は国宝第1号として知られるが、その美しさに触れることができるのは、フェノロサのお陰とも言えそうなのだ。

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